弱者への無限の同情

画像昨日、名古屋に行ったついでに医学生の娘と、母校名古屋大学医学部を訪れた。 『子は親の背中を見て育つ』というが、そんなたいそうな背中を(広いことは広いけど(^_^;))持っていない私は、せめて自分の原点を見せたくて連れて行ったのである。 大学病院は建て替えられて、見上げるばかりの高層ビルになっていた。 講義室の外装は近代的にお色直ししてあったが内部構造は昔のまま。学生運動が盛んだったころにポスターを張ったガムテープの跡だらけだった壁は塗りなおされたのだろうか、きれいな白壁になっていた。 いやにゆっくりな旧式のエレベーターで4回に上がり、講義室のロビーに立った。 分別ごみ用の4つのごみ箱に接するように、私の好きな銅像が、昔のままに置かれていた。 その当時、自動車で通学していた私は、朝の渋滞を嫌って早朝に大学に到着するようにしていた。 講義室の鍵があくまで、ロビーのソファで缶コーヒーを飲みながら、古い大学病院独特の朝のどんよりした空気に浸り、ぼんやりとこの銅像を眺めていたものである。 銅像の主の、久野寧先生とは、何の面識もない。 「きっと、偉い先生なんだろう」と思ってはいたが、インターネットも無い当時、わざわざ久野先生の業績を調べるようなこともなかった。 ただ、気になっていたのは銅像の台座の銘板に刻まれた文字。
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弱者への無限の同情これを医道と云ふ
弱者へ同情することは、だれでもするであろう。この言葉のすごいことは『無限』なのである。 「君は、すべての患者さんを救えるわけじゃない。でもね、いつも患者さんの事を心配してなくちゃいけないんだよ」 臨床実習で受け持った難病の患者さんのすべてが、大学病院で治療をして治るわけじゃない当たり前の現実を間近に見て、うろたえていたその当時の自分には、いつしかこの言葉が染みついていた。 わが娘にも 「医者になったら、親孝行しようと思わなくても良い。死に目に間に合わなくても良い、その時間を弱い患者さんと共に過ごすことに使うように」 と近いうちに伝えておくことにしよう。
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空き地は子供のパラダイスだった

画像いつもの散歩道の途中、小石川植物園に沿う小路の対面側に、長い長い塀が広がっている。 高さは3mはあるだろうか、大きな門と塀のつなぎ目から覗くと、小学校が一つできるくらいの空き地が夏草に覆われて広がっている。 これは夢の中の世界、Dr.OKの子供のころの原風景ではないか。 昭和40年代、高度経済成長の真っただ中。 荒れ地や雑木林が、宅地用に造成され、広大な空き地の隅には土管の山。ブルドーザーが放置されていることもあった。 周囲には、塀などはなく、子供たちの格好の遊び場。 土管の中に秘密基地を作ったり、ブルドーザーの運転席に上れば、それは『国際救助隊』の操縦席に変わった。 時には、2B弾という爆竹のようなもの(5㎝位の長さのストロー型の花火)で、片方にマッチのような擦りつけ部分があり、マッチの箱に擦り付けて点火すると黄色い煙が出てくる。10秒ほどで爆発するのだが、手りゅう弾を投げるように『何秒我慢して持っていられるか』を競ったり、壊れたおもちゃを爆破してみたり、想像できる限りの遊びをあみだした。 画像そんな、ジャイアンがリサイタルを行い、のび太が隠れている土管があるような空き地は、いつごろから無くなったのだろうか。 おそらく事故が起こったときに安全管理が問題になるから塀で囲ってあるのだろうが、安全な環境を得た代償として子供のパラダイスが無くなってしまったのは寂しい限りである。
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どえんちゅよっ!!

子供を育てていると、それまで経験したことの無い、いろいろな楽しい経験をさせてもらうこともある。 幼児語というのもその一つで、小さなわが子が、一生懸命片言でしゃべるのは、親としては目を細めたくなるヨロコビを覚えるものだ。 Dr.OKの長男は、とにかく早くからよくしゃべった。 はっきり発音できないものは、適当に略すわけだが、それが面白くて、ついついその幼児語を息子が大人になっても、夫婦の間で使っていることに気づく。 たとえば、私が妻のことを「みきちゃん」(←嗚呼!なつかしはずかし。こんなふうに同居人の人を呼んでいた時代もあったのだ)と呼ぶのを聞いていた息子は「いーしゃん」と呼び出し、今でも名前で呼ぶ必要があるときは、この「いーしゃん」を使われてもらっている。 そのほかにもガソリンスタンドを「ガッタンド」、ごちそうさまを「ゴーマ」など、香取慎吾さんの「おはー」を先取りしている秀逸な省略語であった。 そんな息子が、私の勤めている病院の小児科にかかることがあった。知り合いの同僚の皆様からは、「奥田先生の縮小コピーが来た」と、すぐに有名になってしまった。 小児科の待合室にあるベンチで待っている間、じっとできない息子が、ベンチの背もたれによじ登ろうとしていたのを妻が 「そんなことをしていると、どーん と床に落ちて、えーん と泣くことになるから、やめましょうね」 とさとしたら、すぐに納得したのか、おとなしくベンチに座っていた。 しばらくして、同じことを『御同輩』が始めようとして、ベンチの背もたれによじ登るのを見るや否や 「どえんちゅよっ!!」 と大きな声で、注意した。言われた『御同輩』は、何のことかさっぱりわからず、意味不明ワケワカメ状態できょとんとしていたことは、その後の語り草となって、今に至っている。 そんな息子も、人生の大きな試練を迎え、孤軍奮闘の毎日らしい。 頑張れ息子よ!DNAの伝達者よ!!
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だれでも親孝行

親を亡くし「もっと親孝行をするんだった」と悲しんでる友人を慰める言葉はいろいろある 「順番だから仕方ないよ」 「君が元気に活躍することが、最大の親孝行だよ」 「忘れることなく、ご供養すれば、きっと草葉の陰で喜んでいるよ」 などなど。 そんな慰めの中で、Dr.OK が元も心に残ったひとことは 「三歳までの可愛さで十分親孝行しているよ」 というもの。 最近フェイスブックで自分史を作っているDr.OK アルバムを引っ張り出して、小さいころの写真をふむふむと眺めている。 おぉ、天使のようにかわいい一コマがあるじゃないか。 よく、芸能人が子供のころの写真を出して、皆から「かわいぃぃ~」なんて言われているが、自分も十分勝負できると思った。 そんな写真がこれ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
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フェイスブックをやっている人がいたら http://www.facebook.com/dr.ok.tokyoのタイムラインの下の方に、ごっそり張り付けてありますから、見てね(^_^)
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喰いしんboyの早朝料理

小さいころ、夕食の時間になると、強烈に空腹感を感じた。 おなかが鳴るなんて、生易しいものではない。泣きたくなるくらいの強い空腹感である。 夕飯の時間になっても、支度が遅れているときなんて、空腹を紛らせるために三輪車で町内一周をして、気をまぎれさせたものだ。 今朝、久々に空腹感とともに目が覚めた。 どうしても、とっても辛いカレーが食べたい。 キッチンを探したが、中辛のレトルトカレーしかない。 画像ようやく、タイのレッドカレーペストが引き出しの奥にあるのを発見した。 次に冷蔵庫の捜索。こちらも、ほぼからっぽだったが、ようやくジンギスカン用冷凍ラム肉、エリンギ、冷凍ブロッコリー、最後にココナッツミルクの缶詰を発掘した。 こうなったら、自己流「タイカレー  の・ようなもの」を作るしかない。 まず、ラム肉を炒めレッドカレーペーストを投入。すぐに 「一発勝負するかい?」 とカレーペーストが辛さを主張する香りをまき散らす。 「いい根性しとるやないけ」 とばかりに、刻んだエリンギを追加投入。 火が通ったら、400mlのココナツミルクの缶を開けて、躊躇することなく、全力投下。 缶に8分目ほど水を追加し、中にこびりついたペースト状のココナツミルクをきれい溶かしこみ、そのまんま東に取っ手が向いている(ウソウソ)鍋に追加投入。  『生かしていただいてありがとう』精神で、決して食材は無駄にしないのである。名古屋人は、質実剛健だでかんわ~。 画像5分ほど火を通し、味見。 「うっ、コクがなくて不味っ!」 即座に、クノールチキンコンソメキューブ2個を投入、砂糖、少量のナンプラーを追加しながら、数回味見。 とにかく、頻回味見しながら投入量を決めるのが、『石橋をたたいて叩き割る』性格のDr.OK流である。 味が決まったら、器にうつし、彩にレンジで解凍したブロッコリーを乗っけて完成。 製作開始から、30分以内が喰いしんboyの調理哲学なのである。 味はって? 口に入れると、甘くてくりーみー。だけだと思って油断するのは大間違い。 甘さで隠されていた、ピッキーヌ(激辛青トウガラシ)の総攻撃がはじまって、口のなかピリピリでTKO負け。 んま~~~。 レトルトのタイカレーより美味いと思った。
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スマホに夢中

そろそろ、購入して1か月近くになるDr.OKのiPhone。 毎日が発見の連続である。 カメラや音楽プレーヤーの機能(そんなもん、普通の携帯でもあるわぁ)で感心していたのは、一か月前のこと。 最近では、道案内機能をフルに使っている。 朝のウォーキング、「知ぃらない~街を、歩いてみぃ~たぁ~い」ごとく、毎日路地に侵入して、新たな発見をするのは、『ちい散歩』みたい。 ただ、困ったことに、どこを向いても同じような景色のところも多く、30分も歩いていると帰り道がわからない。 子供のころは、どこに行っても方角がわかる野生の能力があったようで、道に迷ったという記憶がないが、今やその能力も失せ、時間ばかり経って焦っても帰れない。 そんな時GPS機能を使って、現在地から我が家までの経路を刻んだ地図を見ることができ、あっという間に現実社会(大げさ)に戻ってこられる。 この機能も普通の携帯にあるかもしれないし、近いうちに当然の機能として内蔵されるのかもしれない。 しかし、スマホが優れているのは、CPUや記憶装置の発展につれて、今後ますます機能がまし、自分に必要な機能だけ、インストールできるという事にある。 そんなことが、かつてパソコンでもあったなぁ。 Dr.OKが研修医のころ、初めて買ったMS-DOSパソコンを使って、手術記事を書いていた。 その当時のワープロソフトは一太郎が主流で、なんとフロッピー二枚にシステムと辞書が入っていて、インストールするという(というか、ハードディスクそのものが内蔵されていなかった)ことは無く、二枚のフロッピーを差し込んで変換する仕組み。 変換するたんびに「カタコン、カタコン」と音を立て辞書を読み取りながら変換していく。 こちらも、キーボードでの入力速度が遅いから、一太郎のスピードに勝つことが一つの目標となったりした。 先輩がやってきて 「奥田君、何してるの」 「ワープロで手術記事を書いています」 「それって、便利なの」 「ええ、先輩に記事の誤りを指摘されても、すぐに書き直せますし・・・」 その先輩は、博士論文を大学に提出中で、指導教官に繰り返し内容を訂正され、そのたびに嫁さんに清書してもらい再提出していた。 「博士論文を書くときにも、先輩のようにできた嫁さんがいなくても大丈夫でしょ」 とDr.OKがちょっぴりちゃかすと、 「まぁ、音声入力ができるようになったら、俺も買うわ。それより、そんなことしている暇があったら病棟を回って患者さんを診ろよ」 と厳しい指導を受けた。 そんな時代もあっという間に変わり、学会発表の抄録の提出ですらパソコンで作成し、インターネット経由で提出しなければ受け付けてもらえない時代になったのである。
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解剖実習

医学生の娘が3年生になったころ、 「とーとー(おとうさん)、解剖実習始まったよー(´▽`)ノワーイ」 と連絡がきた。 「様子はどう?」 と尋ねると 「面白いけど、大変だよー」 との返事。 はやくも、医学的に興味があることを『面白い』と言ってしまう、医者の嫌なところの片鱗をのぞかせている。 興味ある病気の患者さんを『面白い症例』という、医師仲間の会話は、一般の人から聞いたら不謹慎に聞こえるだろう。いわんや、生死をかけて重い病気と戦っている患者さんが聞いたら、どんなに気落ちするかわからない。 今度会ったら、注意しなくっちゃ・・・ Dr.OKも2年間の教養部生活をようやく終えて、3年目に医学部に進学したころ、解剖実習が始まった。 潤沢なご献体の準備がある我が母校は、4人で2体の解剖を行い、1体目は上半身、2体目は下半身というように、ぜいたくな体制で解剖実習を行った。 その分、解剖実習にかける教授の意気込みもすごく、実習時間内ではとうていこなせないような課題を与える。学生は、講義が終わると急いで解剖実習室を開けてもらい、時には日にちが変わるころまで解剖を行い、力尽きて講義室のソファーでお泊りするようなこともあった。 こうやって、実習が終わるころには、医師としての心構えの一片を会得するのも、解剖学実習の重要な意義である。 解剖実習にあきた医学生が、献体の耳をそぎ落として壁につけて「壁に耳あり」とふざけて退学処分になったという都市伝説があるが、Dr.OKの見た解剖実習には、そんな雰囲気はみじんもなかった。 実習の始まりには、すでにバラバラな物体と化しているご遺体に手を合わせて黙とうをしてから、おおってある青いカバーを取った。 とはいえ、全く押し黙って黙々とメスやはさみをふるっていたわけでもない。 時には冗談も言い合い、穏やかな雰囲気をつくらなければ、気が重くてやっていられないというのが、口に出さなくても皆の思いであっただろう。 「(医学生に切り刻まれるから)献体するくらいなら、死んだほうがましだ。」 なんてブラックジョークが飛んだのも、今となってはちょっと不謹慎だったかと反省する。 かけがえのない命を終えて、さらに献体するという崇高な意思をいただき解剖実習をすることによって、Dr.OKはなぜ医師になりたいかとの問いに、明快な回答を得ることができた。 それは、人の命を救うことは『絶対的に善』であるという事。 「それなら、世紀の大悪人の命を救うことも善なのでしょうか」 と聞かれることもある。 しかし、世紀の大悪人であっても、リンチで殺してしまうのは善ではない。 どうして、そのような犯罪的行為が行われたのか究明し、人類として二度とその過ちを繰り返さないための教訓を得ること。そのうえで、公正な裁判によって相応な社会的責任を果たさせるのが、善なのである。 なんか、話が大きすぎる方向に進んでしまった(*^~^*)ゝ 全国の医学生のみなさん、頑張ってください。
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『山の神』と接近遭遇

昨日はシトシト雨。緊急減量中のDr.OKは、それにもめげず傘をさして、ウォーキングに出かけた。 風もやや吹いており、時おり傘を傾けないと飛ばされそうになる。さすがに、いつもすれ違う愛犬家や、ジョガーとも、ほとんどすれ違わない。 画像そんな中、こちらに向かってくるジョガーに目が留まった。飛ぶような軽々した足の運び。それに対して、重心がぶれていない安定したフォーム。 一見して『プロの走り』を彷彿させる。 すれ違いの一瞬、パーカーのフードから、特徴のある強く張った顎が見えた。 そうだ、あの箱根駅伝で『山の神』と呼ばれた有名選手に違いない。 彼が所属する東洋大学近くの、緑深い雨の散歩道を一人黙々と走っていた。次の目標に向かって、絶え間ない努力をしているのであろう。 何事も一つの成果を上げるには、地道な努力の積み重ねが欠かせない。 Dr.OKも受験生だったころ、テレビも観ず、朝の3時から日曜祭日返上で机に向かっていたことを思い出した。 Dr.OKも初老と呼ばれる年齢に達し、いろいろ無理の効かないことが多いが、ここが人生の頑張りどき。 ましてや若人。若い時には何でもできる可能性を持っている。 何かを成し遂げた成功体験が、自分を勇気づける一生の宝物となる。 頑張れ若人、がんばれ受験生。
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海軍魂

私の父は予科練出身で、急降下爆撃機のパイロットである。 そんな話を、防衛医科大学出身の同僚に話すと 「じゃあ、先生も防衛医科大学志望だったんですか?」 と尋ねられた。 それが大間違いなのである。 戦争に勝って立身出世を夢見た父は、日本初の中学生一斉志願に志願し、身長180㎝で競走部選手(長距離)も評価されたのか、見事甲種合格。 憧れの戦闘機乗りになったが、敗戦で夢破れた。 戦後の混乱期に翻弄され、二人の兄は医者になったが、父は中卒のまま。 高度成長期の学歴社会では、きっと悔しい思いをしたのだろう。 そんな父のモットーは 戦争は絶対にいけない。 ただ、息子(Dr.OK)の生涯、きっと戦争が起こるに違いないから、自分と同じような憂き目に合わないように医者にしよう。 招集されても軍医なら生き延びる確率も高い。 そんな感覚で、その頃会得した海軍魂でDr.OKを厳しく育てた。 夏休みになると、5時半に起こされ、当時から肥満児で体育の成績が悪かっただったDr.OKに1500m走を命じた。 起きてからもたもたしていると、 「出撃命令が出てから3分で発進だ。」 と叱られた。 駆け足も、自分のペースでもたもた走れないように、その当時は一般家庭では珍しかったストップウォッチ(ねじまき式)を購入し、タイムが良くならないと叱責された。 そんな体験から、Dr.OKは早寝早起きが苦にならない。 ありがたいものだ!(^^)! 今朝も4時に起きて、40分のウォーキングを行ってからシャワーを浴び、ブログを書いている。
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当直明け

昨晩当直をこなし、引き続き今日一日診療です。 当直といっても救急外来をやるわけではなく、入院患者さんの対応をするだけで、寝当直といっても良いものでした。 私が卒業してから5年間修行していた小牧市民病院は、救急医療を頑張って発展した病院なので、救急外来は大変忙しく、「どんな場合も、絶対に断るな」というのが至上命令でした。 ある日、満床で患者さんを他の病院へ転送したら、翌朝院長先生から呼び出され、 「どうして、断ったんだ」 ---満床で、入院させるベッドがありませんでした。 「あんた、病棟の処置室があることを知っとるだろう。」 院長が『あんた』と呼ぶときは、かなり怒っているサインで、Dr.OKも身構えた。 「処置室に寝かせて、朝まで、あんたが診とればいいじゃないかっ!!」 また、年に一度くらい『手術祭り』とも呼べるような大忙しの日があった。 当時、土曜日は半ドンで、午後3時頃ようやく帰ろうとすると、救急外来から電話・・・ 「アッペ(虫垂炎)の患者さんです。」 その頃は、今のように虫垂炎を薬で治すことはあまり行われず、急な右下腹部の痛みがあって、白血球数が10000をこえるような場合は、緊急手術を行っていた。どちらかというと、ひよっこ外科医OKにとっては、執刀を任される有難い症例でもある。 「まぁ、アッペくらいならすぐに片づけて、夕食には間に合うだろう」 と思っていたら大間違い、先輩医師に指導を受けながらの手術中に救急外来から電話があって 「どうも、胃潰瘍の穿孔のようでパンぺリです。」 パンぺリというのは、広範囲の腹膜炎を起こしている状態で、患者さんは痛くておなかを抱えた姿勢(これをエビゾリと呼んでいた)で動けない。至急手術をしなければ敗血症になって致命的である。 急いで、近くに住んでいる同僚に応援をたのみ、今度はDr.OKが助手となって、2時間ほどの手術をこなした。 さあ帰ろうと着替えていると、 「先生、またアッペです。」 と連絡が入り、その後も交通事故で腸管破裂の疑いや、またまた胃潰瘍の穿孔などなど、応援追加し同僚も勢ぞろいで次々と手術をこなし、気づいたら月曜日の朝日が昇ってくるような時間になっていた。 そんな病院で、きっちりと鍛えられたので、昨晩のお泊りは当直と呼ぶのも恥ずかしいくらい。 その当時指導して頂いたS先生が、 「こんなに忙しい病院ばかりじゃないけど、これだけのことを経験したら、将来どんなに忙しくても頑張れるから」 と励ましてくれたのを思い出した。 あっ、そういえば今日は誕生日だった(^_^;)

だれも知らない泣ける歌

まだ内容は充分確認していないのだが、タイトルのような番組 http://www.ntv.co.jp/nakeuta/ が放映されて、『泣け歌』として、紹介されているようだ。 齢50歳を越えると、今までの人生を髣髴させる泣け歌がいくつかあるもので、カラオケなどで最後まで歌えないものも存在する。今回は、そんな泣け歌を紹介したい。 その① 4月になれば彼女は April come she will サイモンとガーファンクルSimon and Garfunkel ♪April come she will When streams are ripe and swelled with rain; May, she will stay, Resting in my arms again. June, she'll change her tune, In restless walks she'llthe night; July, she will fly And give no warning to her flight. August, die she must, The autumn winds blow chilly and cold; September I'll remember A love once new has now grown old.♪ 4月になれば、彼女は帰ってくる 川の流れは満たされ、雨で膨れ上がっている。 5月 彼女は僕の腕の中で再びまどろむ 6月 彼女は突然気が変わる。 夜の街を、休みなくさまようだろう。 7月 彼女は、飛行機で旅立つ 僕には行き先を告げずに 8月 彼女は逝ってしまうに違いない。 秋の風が、冷たく拭きすさぶ 9月 僕は思い出す かつて新しかった愛も、今では古くなってしまった事を。 (下手訳 by Dr.OK) 泣ける理由 4月の暖かな雨と同時に、愛する彼女が帰ってくる 5月には再び僕の腕の中で、愛する彼女は幸せなひと時を過ごす。 だけどなぜか 6月になると彼女の気が変わり、誰にもいえない悩みを抱えて街をさまよう(僕にはいえない、不治の病におかされたのかも知れない。ここからは医者の邪推かも知れないけど) 7月。僕を悲しませないように行く先も告げずに、彼女は治療の旅に旅立つ。 8月。治療の甲斐もなく、彼女はそっと1人で息をひきとる。 季節は秋になっていて、急に僕の同じように冷え込む。(日本だと11月くらいか・・・) 9月。僕は懐かしい愛を思い出して、茫然としている。
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書類選考

三回に及ぶ面接を行い、無事職員の採用が決まった。 思いがけず多くの応募をいただき、面接もできずに書類選考だけで不採用を決めざるを得なかった応募者の方々には、申し訳ない気持ちが胸をよぎる。 というのも、Dr.OKにも書類選考だけで不合格にされた苦い経験があるのだ。 今から30年以上前、大学受験を現役生として受けたとき、その当時国立二期校の某大学には最後のチャンスをかけて受験生が殺到し、書類選考だけで受験資格を決める『足きり』と呼ばれる制度があった。 現在のセンター試験で足きりというのは、絶対評価であるセンター試験の成績で一次選考を行っているわけだが、その時の足きりは、相対評価である内申書の成績(5段階評価の通知表の点数)で決められていた。 旧制中学のバンカラな校風の名残か 「在学中は勉強せず、一浪は当たり前。予備校で頑張って翌年合格するのがスマート」 なんて、怠け者には都合の良い言い訳がまかり通っていた。 当然、Dr.OKも勉強なんか試験の前日だけ。 時に、試験日を間違えて、全く勉強せずに受け、追試なんて事も経験した。 そんなのんびりと高校生活を楽しんでいたツケが回って、内申書は惨憺たる成績(後に、大学入学後奨学金の申請で落とされそうになって、担当教官に推薦状を書いてもらった)。 そんな内申書を提出したものだから、某大学では足きりにあって、入学試験すら受けさせてもらえなかった。 残念ながらこの内申書、高校卒業後いくら努力して学力をつけたところで、未来永劫変わるものではない。 それ以来、「足きり」のある大学は受験する事ができず、内申書も合格判定の参考資料として使われるのか○年にわたって大学入試を落ち続け、ようやく入学を許可してくれたのが名古屋大学なのである。 ありがたや~(^人^) 以来、用意周到、徹頭徹尾、準備万端、安全第一を人生訓にして、無事医業をこなしているσ(^_^;)
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立秋

毎年立秋が来ると思い出すこと。 もう30年以上前のことだが、何年も大学受験に合格できず、通いなれた予備校の自習室で勉強していた。 朝一番から席を取り、一日10時間を最低目標にして机に向かい続けた。 昼頃になると強力に冷やされた冷房のために、体が芯まで冷えてくる。 自分と同じく『通いなれた』仲間数人と連れ立って休憩タイム。 予備校の通用口に設置されていたカップ麺の自販機からお湯をいただき、持ち寄ったティーバッグ、砂糖、レモンのスライスで熱いレモンティーを作った。 ほんのわずかな時間、お互いの不安な気持ちは口に出さず、明るい会話を続ける。 空を見上げるといつもになく透明度が増したような気がした。 「もう、立秋なんだね」 季節を感じる余裕もなく過ごしていた自分とは関係なく、大自然は移り変わっていった。 あれから30年余り、運良く志望大学に合格できた事が今日の自分につながっている。 今年、新たな挑戦ができる幸運を感謝しよう。
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どうして肛門科なんだ?

「東京へ単身乗り込んでいって、手術の腕を磨きたいというのは見上げた根性だ。でも、どうして肛門科なんだ?肝臓をやりたいとか、移植をやりたいとか言わないんだ?」 「痔の手術が良くわからないものですから・・・・」 「それだったら、三ヶ月もあれば十分だろ」 「隅越先生が、『1年はいらっしゃい』とおっしゃっているものですから・・・・」 かれこれ20年も前に名古屋大学第二外科教授T先生と交わした会話である。 卒業して5年目、ようやく癌の手術の執刀が許され、大腸癌、胃癌、乳癌など先輩の指導の下に執刀し、忙しい毎日を送っていた。 5年目という立場。小さな手術は卒業したての後輩に教えるのも仕事。 いわゆる「アッペ(盲腸)ヘモ(痔)ヘルニア(脱腸)」を、後輩を助手にして指導する。 そこでふと立ち止まったのが痔瘻の手術。 痔瘻の手術というのは、括約筋の一部を切開する必要がある。 どの部位をどの程度切開しても、手術後に便が漏れるなどの後遺症が残らないのか見当が付かない。 早速、医学論文を取り寄せて調べたら、東京にある「社会保険中央総合病院大腸肛門病センター」から『括約筋温存術式』という手術法が発表されていた。 先輩たちも誰も経験した事のない術式である。 「これは、何とか現物を見なければ」 と、夏休みを使って社会保険中央総合病院の隣にあるホテルに泊まりこみ、1週間毎日手術見学をした。 まさに『目からうろこが取れる』経験であった。 診察の合理性。手術適応基準の明確性。手術の技術は言うに及ばず、全国から患者さんが押しかけているのがその証であろう。 そこで見た、他の病院で手術を受けて後遺症に悩む患者さんたち。 大きな傷がいっこうに治らない。肛門が狭くなって診察もできない。括約筋が破壊されて人工肛門で生活しているetc. 「ここで気合を入れて痔の勉強をしなければ、いつの日か不幸な患者さんを作り出した『加害者』になるかもしれない」 教授になんと言われようと「人様の体にメスを入れるからには、納得できる手術をしたい」という気持ちは抑えがたいものがあった。 「隅越先生が、『1年はいらっしゃい』とおっしゃっているものですから・・・・」 「隅越先生がそうおっしゃるなら仕方ないか・・・・」 ひときわオシの強い教授にも、隅越先生の名前は絶大であった。 ちなみに『一年はいらっしゃい』というのは、めったにしたことのないDr.OKの作り話であったm(_ _)m

インドの衝撃

日曜日から3日連続で放映されているNHKスペシャル『インドの衝撃』に文字通り衝撃を受けている。 自分の印象の中にあるインドは、貧困にあえぐスラムの人々や、ガンジス川で荼毘に付し灰は川に流すシーン。貧しくて薪を充分に買えない人たちは、まだ灰になりきっていない遺体をそのまま流し、その近くで沐浴をして口を漱ぐ。 しかし、この番組で紹介されているインドは、GDPが20年で3倍になり、25年後には日本を追い抜くというインド。 それを支えているのが、インドの頭脳パワーなのである。 NASAで働く技術者の10人に1人がインド人で、今日発売されるWindows Vistaの開発にも、インドの頭脳が多大に貢献しているとの事である。 一方、いまだに貧しい人々も多い。 貧困から脱出するために、大学を目指す若者たちが紹介された。 約1000人の若者が同時に、屋根だけの吹きさらしの教室で一日7時間の講義を受ける。 雨が降ったら、教室の縁に座った若者は傘をさしながら懸命にノートを取っている。 雨に濡れたノートを手でぬぐいながら、懸命にノートを取り続ける。 紹介された受験生の実家では、両親、3人の弟妹、80歳のおじいさんが農作業に汗をだす。 5000円の大学受験料を捻出するためだ。 そのシーンが、自分の受験浪人時代に重なって胸が熱くなった。 彼らから比べれば充分裕福な家庭だったと思うが、会社員の父親が病気退職して入院中であった。 住宅ローンの返済に充てるため、母はおそくまで内職をしていた。 そんな中でも、年間20万円の予備校授業料を払い続けてくれた両親には頭が下がる。 あの頃が人生で一番ハングリーだった。 あのハングリー精神をもう一度思い出さなければ・・・
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試験日の朝

故あって、何年も大学受験を経験したDr.OK。 なぜか、最後に合格した母校の受験日のことはあまり覚えていないが、落っこちた大学の受験のことは、鮮明に記憶にある。 上野発の夜行列車にのって、北国へ受験しに行ったときのこと。 乗り合わせた北海道の大学を受験するという、自分より少し年上の『苦学生』に見える人の話を聞いた。 彼は、ホテルでアルバイトをしながら受験勉強に励んでいるという。 「この年になると、親がかりでヌクヌクと生活して、大学受験できないんだよね」 まさに「ヌクヌク」と受験勉強していた自分の事を考えると、ちょっと赤面する思いであった。 数日後の受験のため緊張気味の受験生OKとは裏腹に、楽しそうにその頃グラビアアイドルだったアグネスラムを生で見たと、ホテルでのバイトの楽しさを語ってくれた。 「思っていたより、ずっと小さいんだぜ」 夜が明けると、一面の雪景色。 終点からローカル線に乗って小一時間。 乗り合わせたお年寄りがしゃべる言葉が、外国語のように理解できない。 「ずいぶん遠くに来てしまったものだ」 一人ぼっちの寂しさが加速して、戦う前から戦意喪失気味。 『中央ホテル』とは名ばかりの小さな受験宿に泊って、翌朝試験当日。 出された朝食が、全く喉を通らなかったっけ。 宿の女将さんが心配して、いろいろと佃煮などを出してくれてのを覚えている。 今日は、センター試験の一日目。 我が娘も受験する。 早起きの父親が用意した、ウインナとコーンスープとキャベツ炒めの朝食。 クロワッサン三個と共に完食して、やる気満々。 この間まで自分のフトモモにしがみついていたちびっ子が、ずいぶん度胸の据わった娘になったものだ。 父親としては、それだけでもかなり満足である。 きっとよい結果が出るものだと、信じている。 その反面、朝食の食べられなかったひ弱な受験生OK 数日後『ミチノクユキフカシ』の電報を受け取ることになった (゚_゚i)
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台風一過

台風が通り過ぎ、東京では雲ひとつない無風の台風一過の朝を迎えた。 子どものころ、名古屋から伊勢湾に向かって突き出る半島に住んでいたので、伊勢湾台風をはじめいくつかの大きな台風を経験した。 台風が接近すると、早朝から朝焼けの雲が勢いよく流れ、ラジオから流れる台風情報をワクワクしながら聞いたものだ。 暴風雨警報が何時に発令されるかが、もっとも興味のあるところ。 タイミングよく発令されれば、学校はお休み。 台風が通り過ぎた朝の雲ひとつない快晴をはっきり覚えている。 大人たちが後片付けに精を出しているあいだ、1人で近所を探索した。 屋根から落ちて壊れたテレビアンテナ。 アルミ製のアンテナのチューブは、子どもの手でも簡単に曲げられる。 ホウレン草を食べたポパイになりきって、チューブをまげて楽しむ。 木製の塀が倒れてばらばらになっている。 適当な木切れを選んで、工作が始まる。 丘の下の保育園の庭に、急遽できた大きな水溜りに船を浮かべようと、のこぎりで角を切って船型にした。 途中で工作に飽きてしまってそのままにしておいたら、後でやってきた営繕のおじさんが角を切ったままの木切れで塀を補修したため、少年OKの家の塀には船が張り付いた形になってしまった。 それにしても今日の快晴、感激的に晴れ渡っている。 こういう天気を、いつしか『ぴーかん』と呼ぶようになったが、語源は何だろう?
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頑張れ受験生

Dr.OK、たった一回だけだが痔になった事がある。 大学受験浪人、それも三浪、の時、毎日予備校と図書館と家の三角締め状態の時代。 勉強一日10時間が最低ライン、「一分一秒が惜しい」という心構えで机に向かっていた。 わずかなトイレ時間も、貴重な気分転換タイム。 個室に座って、来し方行く末を思いながら、いつもより長めにいきんでいた。 なかなか御大がご登場しないので、あきらめて下をみると・・・ なんと、便器に溜まった水の底に血と思われる真っ赤な液体が沈んでいるではないか。 「う~ん(←駄洒落ではない)、これが痔っていうやつか」 幸い、痛みもなく、出血もそれ一回だったから、何もしなくても治った。 考えてみれば運動不足、食生活の乱れ、座りっぱなしの毎日と、痔主一直線の生活を送っていたわけだ。 先日、若い女性が診察にやってきた。 恥ずかしさが全身からみなぎっている。 恥ずかしさを隠すためか、精一杯おしゃれしてきたところなんかがいじらしい。 問診表を見ると19歳学生。 「出血が気になって・・・」 と、ややうつむき加減で話す。 Dr.OK、緊張を和らげようと世話話をする。 「学生さんというと、座って勉強ばかりしているんですか?まじめですねー」 「えぇ、受験生ですから」 あの頃の自分と重なる。 同級生がほとんど大学に進学し、ぽつんと1人取り残されて孤独に闘っていた。 体力と精神力の限界に挑戦していた。 その甲斐あって自分の手で勝ち取った合格という『成功体験』が、その後の人生の困難を乗り越える大きな自信となった。 頑張れ、受験生のみんな。 『運命が用意してくれた大切なレッスン 』なのである。 ちなみに、痔核からの出血なら座薬で治りますから、ご心配なく (^_^)
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ランドセル

新学期が始まり、ピカピカの一年生が大きなランドセルを背負って、小学校に通う姿が目立つ季節になった。 今でこそカラフルなランドセルは珍しくなくなったが、昭和30年代の知多半島の田舎町では、男は黒、女は赤というのが基本。 そんな中でたった一人青いランドセルを背負って、通っていたのが小学生OK。 両親が伝えたかったのは、きっと「皆と違うことの中に価値がある」ということなのだろう。 小さい時から人一倍身体が大きく、目立つことに慣れていたので、特に不満に思ったことは無い。 かえって人と違うものを選択できることに、誇らしさを感じた。 長じて二児の父親になったDr.OKは、息子と娘にランドセルを自由に選ばせてみた。 息子は「人と違うといじめられるかもしれない」と黒を選んだ。 Dr.OKの「石橋をたたいてから、人に渡ってもらいその後をついていく」という、慎重な性格が遺伝したようだ。 娘は躊躇することなくピンクのランドセルを選んだ。 Dr.OKの「人と違うことに臆することな、くわが道を行く」という、人目を気にしない性格が遺伝したようだ。

桜満開(^-^)

今年も、桜の季節がやってきた。 空気の中には、何か植物が発散する生命に満ち溢れた物資があるのだろうか、シアワセでやや浮き足立った気分で目覚めた。 小さい頃は毎日、この気持ちを感じる事ができた。 荒井由美の『やさしさに包まれたなら』の気分。 毎日神様が夢をかなえてくれた。 入学式。 始業式。 クラス替え。 春の遠足。 写生大会。 次々にやってくるイベントに、小学校はコーフンのるつぼ、シアワセの空間だった。 この4月で職場を変わり、新しい環境でスタートを切るDr.OKにも、あの頃と同じ感覚がよみがえってくるのだろうか。

アトムと鉄人28号

小学生の頃、それまでテレビアニメというとポパイしかなかったのが、和製アニメが登場した。 父親から「鉄腕アトムが放映される」というのを当日朝に知らされて、何のことか分らなかったけれど第一話から観る事になった。 その後、しばらくして鉄人28号が登場し、小学生OKにとってテレビアニメの二大双璧。 ストーリは『いつも良い子』アトムファンだが、いつも絵に書くのは鉄人(きっと書きやすかったのだと思う)だった。 主題歌も今でもはっきり覚えているが、先日鉄人28号のオープニングで使われていたのが、どうも2番の歌詞であるらしい事を最近知った。 記憶の中では 「ビルのまちにガオー(中略)敵に渡すな大事なリモコン」 なのだが、太字部分の1番の歌詞は 「良いも悪いもリモコン次第」 となっている。 リモコンが悪者に取られて鉄人28号に襲われるというストーリーもあったが、小学生低学年OKには恐ろしすぎて正視できなかった。 信頼しているものに裏切られることもあるという事を、理解できなかったのだろう。 そういえば、鉄人28号は小学生の正太郎君がリモコン操作(といっても簡単なレバーをガチャガチャさせるだけ)で操縦していたっけ。 「いくらなんでも、レバー二本で操縦はできないぞ」 とこういう点においてはシビアな目を持っていた小学生OKであった。

丘の上の小さな家

Dr.OKが生まれた家は、小高い丘の上。 南の斜面を下ると保育園。 なぜか1人で行けず、一週間も「おかあちゃま」に付き添われて行ったという不名誉な経歴を持つ。 昭和20年代に立てられた社宅と呼ばれる二軒長屋。 6畳二間に3畳の食事部屋。 丸いちゃぶ台で夕食というレトロな環境。 そのせいか、今でもキッチンの椅子であぐらをかいて食事するという『悪習』が抜けない。 社宅に住む仲間たちは、同年代はなぜか女の子ばっかり。 おままごとでお父さん役をやらされたかって? まさかぁ。一緒に木登りしてました。 最近やけに、その当事が懐かしくなった。 遠い昔の記憶が、ついこの間のようによみがえってくる。 ある寒い午後、5歳くらいだった自分がお勝手のガラス戸をあけて、外に遊びに出ようとする。 今にも雪が降りそうな天気に、母は「寒いからやめなさい」と忠告する。 止められたのでよけいにムキになって、外に飛び出して走りだす。 誰もいないコンクリートの道を20mも行かないうちに、寒さと心細さで涙が出てきて家に逃げ帰った。 その後、暖かく迎えてくれたはずの母の笑顔を思い出せないのが残念である。 気持ちが疲れると「三丁目の夕日」を買ってきて読んでます。

君の夢は

私の抱負は『夢を大切に』です。 憧れのマドンナは、涼しいまなざしで答えた。 中学校のホームルームの時間、「今年の抱負」を発表していたときの事である。 彼女は書道家の娘で、自分もかな作家になる事を夢見ていた 「数学のテストで100点を取りたい」 「部活でレギュラーになりたい」 まだ、子供らしさが残っているクラスメイトたちが現実的な抱負を次々発表する中で 『夢を大切に』 である。 まだまだ、どこをとっても、おこちゃまOKには 「気取ってらぁ」 と思う反面、何か先を越されているような焦りを覚えた。 時は過ぎて、医学生OKの最終学年。 相変わらず眼前直視型の人生観を持って、日々暮らしていた。 刻々と迫ってくる医師国家試験のプレッシャーに耐えながら、青息吐息の生活をしていた。 「最近、不眠症なんだよね」 親友のトリイ君に話すと。 「『フラッシュダンス』観たかい?あれはいいよー。僕なんか3回も観ちゃった」 といつも笑顔を失わない、彼独特のアドバイス。 試験準備で時間が惜しいのに、やはり才能のある人は違うのかなぁ と思いながらも、こっそりと映画館に足を運んだ。 うわさを裏切らない、軽快な音楽とダンスシーンが続き、エンターテイメントとして気分転換にはもってこい。 プロのダンサーになるため、難関ダンス学校を受験しようとしている主人公の汗と涙の物語が、医師国家試験受験にだぶって、素直に感情移入できた。 物語が進んでいって、主人公がダンス学校受験の重圧に負けそうになり、辞めようかと悩んでいるとき、恋人の男性が言った ”When you give up your dream, you die” 「夢を捨てるのは、死ぬことと同じだ」 目前の困難を突破するために必要な、遠いはるかな夢。 マドンナの境地にようやく達した事に気づいた。 時はさらに移り、先日の同窓会で30年ぶりにマドンナに会えた。 昔と全く変わらない(と、Dr.OKには思えた)涼しいまなざしがあった。 挨拶とともに、近況報告。 偶然にも、彼女の息子さんはDr.OKの母校の医学部6年生。 国家試験対策で大変な毎日らしい。 「普通にやっていれば合格できるから、大丈夫ですよぉ」 自分の苦しい経験はすっかり忘れて、無責任なアドバイスをするのも、ご一興。 「ところで、書道はまだ続けられていますか」 「子供が生まれてから、すっかりやっていません。泣いている子供をほっておいてはできませんよね」 ひゅゅゅゅぅぅぅぅ~~~~~ 心の中につめたい風が吹いた。 「で、でも、息子さんも大きくなって、また始められますよね」 しどろもどろになりながら、気持ちが半歩あとずさった。 「君の夢は、どこへ行ってしまったんだぁぁぁ」 いや、それは言うまい。 熱のでた子供を人任せにして、仕事に出かけてしまう男に、それを言う資格はない。 今はひたすら、夢を追いかけられる自分の運命に感謝して、一日一日を精一杯生きよう。 人生を光り輝かせるために。

中学校同窓会

画像 50歳になったのを節目に、卒後35年ぶりに懐かしい顔が集まった。 会場の、名古屋厚生年金会館に新幹線で駆けつける。 中学卒業後に引っ越して、その後開催されたクラス会も無沙汰していたせいか、殆どの顔が思い出せない。 茫然と皆の顔を眺めていると、あちこちから声をかけてもらえた。 わずかに残る記憶の糸をたどりながら、一人一人の顔があの当事と結びついていく。 多感な時代に共に生きた人々。 一緒に笑ってくれた人。 喧嘩しても仲直りした人。 苦しい時代に支えてくれた人。 一人一人に感謝の言葉をのべたいところだが、「嬉しくて、嬉しくて、言葉にならない」とはこういう事か・・・ あっという間の2時間、ビールのコップを持ったまま、何も食べずに過ぎてしまった。 翌日は休日回診があるので、最終新幹線で東京に戻った。 ふるさとを自らの意思で去り、東京で呼吸するDr.OK。 もし、あの暖かなホッとする環境に包まれていたら、今頃はどんな人生を送っていたことだろう。 アルコールと眠気に支配された半覚醒状態で、iPodのスイッチを入れる。 選んだのは、クイーンの『Innuendo』 Oh yes we'll keep on tryin' We'll tread that fine line Oh oh we'll keep on tryin' 'Till the end of time 'Till the end of time Dr.OKの戦場は東京だ。 人生に『 if 』はない。

まじめにしっかりやります

画像 人は生れたときは、皆『まじめ』である。 まじめに人生と闘わないと、生命の存続が危ぶまれる。 お母さんの乳房を一心不乱に吸う赤子は、まじめそのものである。 成長するとある次期『まじめ』であることを人に見せるのが照れくさくなる。 『まじめ』な態度で授業にでるより、ちょっと斜めにかまえた態度で授業を聞いて、試験の時には周囲の予想に反して高得点を取るなんて事が、かっこよく思えたりする。 Dr.OKもそんな呪縛に囚われていたある時期、不意に子供の時に歌ったメロディーがよみがえってきた。 『カブスカウトだぁ、カブスカウトだぁ、僕たちはたちはー。まじめにしっかりやりますーぅ♪ 』 それ以来、『まじめ』である事が、照れくさくなくなった。
posted by Dr.OKの消痔堂日誌 at 06:24Comment(0)TrackBack(0)

祝20000ヒット

今朝、ブログをチェックしたら、アクセスカウンタが20005を示していました。 キリ番踏んだの誰でしょう。 3月17日の夜中に、病院から呼び出されたのがきっかけで軽い気持ちで始めたブログも、一日も欠かさず230日あまり。 平均アクセス数が87というのも、まずまずですね(^^) アクセスログを調べると、ヤフーやグーグルで『痔』とか『ジオン』で検索されてヒットしたものが多いようですが、中には『ゴルフ』とか『クイーン』等の記事にたどり着いている人も結構います。 ブログがいろいろな用語で検索システムにヒットしやすいということは、本当のようですけど、もっと濃ゅ~い記事を期待していらっしゃったマニアの方はビックリでしょうね。 ついでに、痔の知識をゲットしていただけたら幸いです。 日記なんて、小学4年生の頃毎日の宿題として書いていた(担任は鈴木ミネコ先生:後年、ピンキー(今洋子)さんの担任としてテレビ番組に出ていたのを拝見しましたが、お元気でしょうか)以外に、自主的に日記を書いた経験がない。 それが毎日、何らかの題材を見つけてブログを続けられたのは、あの時の経験が物を言っているのでしょうか。 鈴木先生に感謝。

オックステール

Dr.OKが子供時代にすごした知多半島の田舎町の隣に半田市はあった。 東京の人にはあまりなじみのない(というか、無名に近い)町だが、ミツカンの本社もある古くから醸造業が盛んな町である。 まだ小学校にも上がっていなかった頃、父親とその仕事仲間と一緒に半田にあるオックステールという店に連れて行かれた記憶がある。 牛のテール(尻尾)料理というと、テールスープとかテールシチューが有名だが、その店の料理はテールの煮込み。 ニンニクをよく効かせたしょうゆ味だったと思う。 尻尾の太い部分は直径10センチもあろうかと思われる円筒状。 真ん中に太い骨がとおり、その周りにとろとろに煮込まれた脂身と共にかなり歯ごたえのある肉がたっぷりとくっついている。 ナイフやフォークを上品に使う店ではなく、カウンターに座って両手でつかんでかぶりつく。 べとべとになった手をぬぐうオシボリなんて物はなく、新聞紙を小さく切った物を使って手をぬぐうのがその店の流儀だった。 保育園児OKは、大きな塊は苦手で、尻尾の先端に近い細い部分を選んでもらって囓っていた。 田舎の家庭では珍しかったソース焼きそばが食べられるのも、人生のヨロコビのひとつだった。 先日、後楽園の太助という牛タン専門店で、懐かしの「テール」がメニューにあったので注文したら、骨ごと5mmくらいにスライスしたテールを焼いたものだった。 あの、豪快にかぶりつくしょうゆ味のオックステール。 どなたか、食べられる店を知っている人がいらっしゃいましたら、情報お願いしますm(_ _)m
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季節のかわりめ

いつまでも歩くと汗ばむ季節だと思っていましたら、急に秋らしくなり皆様お体に変調ございませんか・・・ なんて時候の挨拶みたいですけど、Dr.OKは突然季節が変わるのが大好き。 冬から春、春から夏というのも趣がありますが、もっとも好きなのは秋から突然冬になる日の朝。 それまで、食欲の秋、スポーツの秋と季節のお祭りを楽しんでいたのが、ある朝外に出てみたら空気がキーンと冷えている。 当然、はく息は白い。 住宅街の路地を歩くと、何処からともなくキンモクセイの香り。 20歳のローニンOKは、その頃テレビで流れていた資生堂のCM「光ってるね!あの娘」というのを聞きながら、予備校に向かって家を出る。 夏の季節に勉強をしたはずなのに、思いのほか効果があらわれずに焦りと不安の毎日。 家を出るときには、いつも吐き気がしたのを思い出す。 感傷に浸るということが殆どない者でも胸がキューンとなって、人生を深く考えてみようかと思う一瞬である。

像が踏んでも壊れない

画像 Dr.OKが小学生の頃、「象が踏んでも壊れない」という筆入れのテレビCMがありました。 実際に試してみて、お母さんに怒られた人!一歩前へ!! 確かに、耐久性は大したものでしたが、それ以上にCMにインパクトがありました。 時は移り、現代の『筆入れ』ともいえるノートパソコンにも、こんなすごいものが10月26日発売予定だそうです。 確かに、すごいですけど、同乗していた人の運命や如何に? まさか、試す人いないでしょうね(゚_゚i)タラー・・・

BICボールペン

画像 ビックカメラのCMが嫌いなのは既にブログに書いたけど、『BIC』と聞いてまず思い出すのが、あのボールペン。 Dr.OKが小学生の頃(昭和40年前後)発売された、透明ペンシル型のボールペンだ。 それまでのペンシル型のボールペンは、最後まで使える事がまれで、父親が使っているノック式のパーカーやクロスの舶来ボールペンがまぶしく見えたものだ。 BICの登場は、そのCMが衝撃的だった。 ライフル銃に弾の代わりにBICを装填して射撃。 「樫板を打ち抜いた後でも、BICの書き味は変わりません」 のナレーションをバックに、ボールペンが板に突き刺さったままの状態でサラサラと書いてみせる。 その後、「見える、見える、見える」というコピーでゼブラボールペンが登場。 「インクが見えるうちに書けなくなったら、お取替えします」 と強気な販売。 同じ時期に、北島三郎さんを起用して 「軽く書いても、真っ黒けのけ~ぇぇ」 の三菱ボールペンが、1本30円で価格競争を仕掛ける。 「これでも30円、まっくろけのけ!」 いつしかBICはあまり見かけなくなってしまいましたが、実はBICは1952年にヨーロッパでMarcel Bich という人が開発して、自分の名を省略した“Ballpoint Bic” という名で発表したものとのこと。 ちなみに、ビックカメラの名前の由来は、こちらが詳しいです(^^)
posted by Dr.OKの消痔堂日誌 at 06:35Comment(0)TrackBack(0)